和紙の豆知識 Trivia of paper
「紙」のプロフェッショナルである宇野紙がみなさまにお伝えする紙の豆知識。 紙の歴史② ~紙の日本伝来・・仏教と紙の役割~ 皆さん、こんにちは。まだまだ先の見えないコロナ禍の状況が続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか?在宅勤務や外出自粛をされて感染拡大防止に努めている方も多いことと思います。 さて、前回から紙の歴史についてお話をさせていただいており、『紙のようなもの』から中国の蔡倫が発明した『紙』に進化するまでの歴史を説明させて頂きました。今回はこの紙が日本に入ってきて、どのように広まっていったのかをお伝えしたいと思います。ただ、日本の紙の歴史に関しましては、中国から伝来する前から作られていたという説や、渡来人が伝えていたという説、など諸説あります。ただ、1500年以上前 の話で、記録も残っていない時代の話なので、いつ、どこで、どのような紙が作られていたのかという文献も残っておりません。これからお話することは、ある程度文献が存在している時代から先のお話をさせて頂きますのでご了承ください。
敬虔な仏教徒であった太子がこの2名の僧侶を篤くもてなしたことは想像に難くありません。この派遣により曇徴から『製紙技術』が初めて日本に伝わったと言われています。※諸説あります。 また、この曇徴は同時に絵の具も日本に初めて伝えた人物のようです。紙と絵の具、どちらも絵画には欠かせないものですが、この曇徴はとても重要なものを日本に伝えてくれた恩人になりますね。 さて、その後、太子ははこの製紙技術使って漉いた紙を何に使用したのでしょうか?太子は特に仏教を広めようとしていました。そして、その当時、御仏の心に触れる方法は何だったのでしょうか?
その後、時代が進み、鎌倉時代から室町時代に入ってくると、越前地方を中心に幕府や領主の手厚い保護を受けながら、和紙の生産はさらに進化していきます。特に越前奉書(えちぜんほうしょ)と呼ばれる高級和紙が製造されるようになり、朝廷や幕府に納められるようになります。奉書とは、主人の意志を奉じた従者の署名によって発給する文書の形式で、綸旨(りんじ)、院宣(いんぜん)、御教書(みきょうじょ)などがこれに当たり、そのような書類を書いた公文書用紙をも指します。貴人が命令などを伝える場合、自分では命令書を記さず、家司や従者が口述されたものを代筆します。その場合、その家司の署名があり、そのような文書の形態や文書そのものを奉書と呼ぶのです。綸旨は天皇からの奉書、院宣は上皇や法皇、御教書は公家や武家の上位の方の奉書になります。位の高い方の意思や命令を伝えるものですから、とても貴重かつ重要であったため、幕府や領主の手厚い保護を受けていたのも納得できますね。
さて、今回は中国で発明された紙が、朝鮮半島を渡り、日本でどのような進化を遂げてきたのか説明をさせて頂きました。紙は貴重でとても価値のあるものとして使用されていたことを理解していただけたら幸いです。次回は日本で独自の発展を遂げた和紙とは別に、ヨーロッパで発展して進化をしてきた洋紙についてお話をさせて頂けたらと思います。それでは、またお会いしましょう。 紙の歴史① ~紙のようなものから紙へ・・紙の成り立ち編~
皆さん、こんにちは。この新型コロナウィルス騒動で、一時トイレットペーパーやペーパータオルなどの紙製品は品薄になり、衛生用の紙製品の需要は確実に増えたようです。その反面、コンピューターの普及とともにペーパーレスという言葉がささやかれ始めた昨今、確かに情報伝達手段としての書籍や広告などは携帯電話やタブレットの普及で大きく使用量が減少しており、また、FAX用紙もメールの普及とともにその使用量を減らしております。しかし、現在の紙の役割はもはや情報伝達だけではなく、パッケージ、建材、農業資材、産業資材、粘着テープの基材、絶縁体など多岐にわたっており、様々な形に進化して皆さんの生活の中に溶け込んでいます。 今回からシリーズで紙の歴史について触れていきたいと思います。紙がどのような歴史をたどり、どのような進化を歩んできたのかをお話させて頂きたいと思います。 まず、紙ができる前の『紙のようなもの』のお話です。中国では前漢の時代、紀元前200年~紀元前100年くらいに、紙の原型になるようなもので、桑の樹皮を水につけて乾かしたようなものが出現しました。また古代エジプトでも、カミガヤツリという草を水につけてふやけさせた後、搾水して乾かした『パピルス』と呼ばれる『紙のようなもの』が存在しています。
不織布のあれこれ(基本編)
弊社でも、ここで紹介した、湿式不織布、エアレイド不織布、スパンボンド不織布の他、様々な不織布を取り扱 っています。時々、お取引先様から『お客様からの引き合いで不織布が欲しいんだけど・・・・』というお問い合わせを受けることがあります。その場合は使用用途やイメージをお聞きしておりますが、なかなか先方でもイメージがはっきりしていない場合が多いようで、選択肢が多すぎるゆえに難航するケースが多いようです。 例えば、カーディーラーで『使用用途やイメージは特に決まってないけど、とりあえず車が欲しいんだ』というお客様にどう車を提案していくか・・。ここは紙屋の腕の見せ所なのかもしれませんね。 さて、今回は意外に知られていない不織布ということをテーマに記事を書きましたが、いかがだったでしょ うか?不織布ワールドは、素材、製法、種類、用途開発など、それこそ奥が深すぎて、私もまだまだ勉強中の身 ではありますが、皆さんの身近なところを例に説明させて頂きました。またの機会にさらなるディープな不織布ワールドを紹介させて頂ければと思います。それでは、皆さん、またお会いしましょう。 紙の単位の豆知識
円網ヤンキー抄紙マシン概略図 |
機械抄きの和紙とコピー用紙などに代表される洋紙との違いは何でしょうか?どちらも機械で抄いています。確かに和紙は手漉き和紙の風合いに近づけるために作られており、手触りが柔らかく、温かみがあります。しかし、どちらの原料もバルプをメインとして抄いています。同じパルプを使用してどうして、このような違いが出るのでしょうか?
まず和紙は繊維の長い針葉樹のパルプをメインにしており、洋紙は繊維の短い広葉樹のパルプをメインに抄いております。この違いにより、和紙は嵩高で柔らかい紙になり、洋紙は目の詰まった印刷に向いている紙となるのです。
そして、2つめが抄紙マシンの違いです。大きな違いはドライヤーの違いです。機械漉きの和紙の多くで使用されるヤンキードライヤーは紙の片面にだけ熱を当てて乾かすため、ドライヤーの当たっている面と当たっていない面で風合いの差が生まれます。これが紙の表と裏になり和紙の大きな特徴となっています。しかし、乾燥させるスピードが洋紙で使用される多筒式ドライヤーよりも遅いため、大量生産には向かないため洋紙に比べコスト高になりがちです。一方洋紙で使用される多筒式ドライヤーは、紙の表裏両面に小さなドライヤーを連続して当てていくことにより、すばやく乾燥させます。これにより表裏のない紙を大量に生産することが可能なのです。
① 原料槽の中に溜まっている製紙原料を円筒型の網(円網)ですくい上げ、網とフェルトの粗密の差を利用して、紙の素となる原料を次工程に移していきます。
② フェルトパートでは紙の地合を形成します。紙の素となる原料の水分を落としながら次工程のドライヤーパートに移していきます。
③ ドライヤーパートでは紙を乾燥させます。高温に熱せられたドライヤーの表面に紙を当てて乾燥させます。機械抄き和紙の抄紙で使用されるヤンキードライヤー方式では紙の片面にのみ円筒型の大型ドライヤーを当てて紙を乾かすため、紙に表裏があります。ドライヤーに当てられた方が表面(ツル面)、当たっていない面が裏面(ザラ面)になります。
④ 欠点検知器で異物が入っている箇所に目印を入れます。後の工程で異物の入っている箇所を除去し、前後の紙をつなぎ合わせます。
⑤ 巻き取りパートでは乾燥した紙を巻き取っていきます。巻長8000m~12000mくらいのマザーロールに仕上げます。後の工程で希望幅にスリットします。
⑥ スリット工程ではマザーロールをユーザー様の希望にあわせてスリットします。また欠点検知器によって入った目印をもとに、異物の入っている箇所を除去し、前後の紙をジョイントします。
⑦ 製品幅にスリットされた原紙を梱包し、製品名、巻m数、ロットNo、ジョイント回数などが記載されたラベルを貼り完成です。
和紙について
和紙は洋紙に比べ繊維が長く、紙厚が薄くても耐久性や保存性に優れ、美しい風合いが特長です。生産性の低さから価格は高いものの、トータル的に見ると、薄く、強靱で世界で最も優れた紙と言え、世界各国の文化財修復にも使用されております。
大量に生産された江戸時代には、建具の他に着物や寝具にも使用されていました。現在、なじみの深いところでは、紙幣の素材などに用いられています。また、天然の素材として、インテリア向けの需要も高まっており、その他に卒業証書をはじめ、様々な習い事のお免状用紙などは越前和紙の透かし入りの鳥の子、局紙、もしくは檀紙などが使用されています。 製紙技術の歴史は、中国「後漢」時代に蔡倫(さいりん)が改良したことから始まります。日本への伝来は、610年と言われており、ヨーロッパへの伝来と比較して500年以上も早く伝来しました。さらに、513年五経博士が百済より渡来し、「漢字」「仏教」が普及しはじめた頃、写経が仏教普及の大きな役割をはたしていたことから、この頃すでに紙漉人がいたのではないかとも推測されています。年代のわかるものとして、現存する最古の和紙は、正倉院に残る美濃、筑前、豊前の戸籍用紙です。また、最古の写経である西本願寺蔵の「諸仏要集教」は、立派な写経料紙に書かれており西暦296年の銘記があります。 | |
西域への伝来は日本への伝来の約140年後の事であり、製紙技術者が戦時捕虜となることで伝来しました。当時、製紙法は中国とその周辺国家における国家機密であり、高句麗からの技術の伝達は信頼の証として伝承されたものでした。紙の発明地と伝えられる中国や地続きの朝鮮半島と交流のあった日本には、そのような理由から比較的早い時期に伝来したと考えられます。 |