和紙の豆知識   Trivia of paper

 
 

 

 「紙」のプロフェッショナルである宇野紙がみなさまにお伝えする紙の豆知識。
普段、馴染みの深い紙から、見るも触るも珍しい紙に至るまで、なるほど納得、はじめて聞いた・・・、そんな紙のあれこれをご紹介します。




紙の歴史② ~紙の日本伝来・・仏教と紙の役割~ 


 皆さん、こんにちは。まだまだ先の見えないコロナ禍の状況が続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか?在宅勤務や外出自粛をされて感染拡大防止に努めている方も多いことと思います。

 さて、前回から紙の歴史についてお話をさせていただいており、『紙のようなもの』から中国の蔡倫が発明した『紙』に進化するまでの歴史を説明させて頂きました。今回はこの紙が日本に入ってきて、どのように広まっていったのかをお伝えしたいと思います。ただ、日本の紙の歴史に関しましては、中国から伝来する前から作られていたという説や、渡来人が伝えていたという説、など諸説あります。ただ、1500年以上前

の話で、記録も残っていない時代の話なので、いつ、どこで、どのような紙が作られていたのかという文献も残っておりません。これからお話することは、ある程度文献が存在している時代から先のお話をさせて頂きますのでご了承ください。 

 さて、時は西暦552年、欽明天皇の時代、朝鮮半島の百済(くだら)という国から日本へ仏教が伝来しました。当時の日本は神道が信じられていましたので、仏教を認めない保守派の豪族と仏教を日本に取り入れたい革新派の豪族が争うようになりました。その後さらに時は進み、用明天皇の時代、用明天皇崩御後の後継者を巡り、神道派の物部守屋(もののべのもりや)と仏教派の蘇我馬子(そがのうまこ)によって、両派閥の争いはさらに激化し、神道派の物部守屋の一族は滅ぼされてしまいます。当時、蘇我馬子側で戦った人物には姻戚の聖徳太子がおりましたが、聖徳太子はこの戦の際に四天王の像を造り、戦に勝つことができたらお寺を造りますと誓いをたてました。太子は戦に勝利した後、その誓いを守り摂津国難波に四天王寺を建立します。           聖徳太子
  
    四天王寺 大阪市天王寺区
 その後、推古天皇の摂政に就任し、仏教を国政に取り入れ、寺院を数多く建立し、自身も敬虔な仏教徒として推古天皇の補佐に当たりました。そんな仏教と切っても切れない縁をもっていた聖徳太子が摂政をしていた西暦610年の飛鳥時代、朝鮮半島の高句麗から曇徴(どんちょう)と法定(ほうてい)というお坊さんが日本に派遣されてきます。

 敬虔な仏教徒であった太子がこの2名の僧侶を篤くもてなしたことは想像に難くありません。この派遣により曇徴から『製紙技術』が初めて日本に伝わったと言われています。※諸説あります。 また、この曇徴は同時に絵の具も日本に初めて伝えた人物のようです。紙と絵の具、どちらも絵画には欠かせないものですが、この曇徴はとても重要なものを日本に伝えてくれた恩人になりますね。 

 さて、その後、太子ははこの製紙技術使って漉いた紙を何に使用したのでしょうか?太子は特に仏教を広めようとしていました。そして、その当時、御仏の心に触れる方法は何だったのでしょうか? 

 そう、実は写経用の紙として使用したのです。当時、聖徳太子による仏教の普及とともに、急激に写経用紙の需要が高まっていました。そんな中、曇徴の伝えた製紙方法は大量生産にも向いており、写経用の紙としては持ってこいだったわけです。海を渡ってやってきた、『紙』の日本で初めての役割は仏教の普及で、仏教と紙は、いわば切っても切れないコインの表と裏のような関係だったのです。 



   原料用楮(こうぞ)
 その後、この製紙技術で抄かれた紙は戸籍の管理などにも使用されていきます。さらに、平安時代になると、曇徴から伝わった製紙技術は、さらに日本独自の改良が加えられ『和紙』として進化していきます。楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)などの靭皮繊維(じんぴせんい)という、強靭で長い繊維を流し漉きという方法で漉き、薄くて丈夫な紙を製造することができるようになりました。 
 また、この頃には朝廷で使用する紙を漉く紙屋院(かみやいん)という官営の施設があり、そこでは漉き返し(す
 きかえし)という技術がつかわれていました。これは今でいうところの、古紙からの再生紙ということになります。
 当時貴重品であった紙は役目を終えた後、もう一度溶かして新しい紙の材料として再利用されていたのです。日本人の『もったいない』の精神はこのころから根付いていたのかもしれませんね。ただ、漉き返しによって再生された紙は、当時の技術では残った墨を十分に抜くことができず、灰色の紙になったため、『薄墨紙』(うすずみがみ)とよばれていたようです。  
    薄墨紙の綸旨(後醍醐天皇綸旨)
(京都府立京都学歴彩館 東寺百合文書WEB から)

 その後、時代が進み、鎌倉時代から室町時代に入ってくると、越前地方を中心に幕府や領主の手厚い保護を受けながら、和紙の生産はさらに進化していきます。特に越前奉書(えちぜんほうしょ)と呼ばれる高級和紙が製造されるようになり、朝廷や幕府に納められるようになります。奉書とは、主人の意志を奉じた従者の署名によって発給する文書の形式で、綸旨(りんじ)、院宣(いんぜん)、御教書(みきょうじょ)などがこれに当たり、そのような書類を書いた公文書用紙をも指します。貴人が命令などを伝える場合、自分では命令書を記さず、家司や従者が口述されたものを代筆します。その場合、その家司の署名があり、そのような文書の形態や文書そのものを奉書と呼ぶのです。綸旨は天皇からの奉書、院宣は上皇や法皇、御教書は公家や武家の上位の方の奉書になります。位の高い方の意思や命令を伝えるものですから、とても貴重かつ重要であったため、幕府や領主の手厚い保護を受けていたのも納得できますね。

 

 さて、今回は中国で発明された紙が、朝鮮半島を渡り、日本でどのような進化を遂げてきたのか説明をさせて頂きました。紙は貴重でとても価値のあるものとして使用されていたことを理解していただけたら幸いです。次回は日本で独自の発展を遂げた和紙とは別に、ヨーロッパで発展して進化をしてきた洋紙についてお話をさせて頂けたらと思います。それでは、またお会いしましょう。 




紙の歴史① ~紙のようなものから紙へ・・紙の成り立ち編~ 


皆さん、こんにちは。この新型コロナウィルス騒動で、一時トイレットペーパーやペーパータオルなどの紙製品は品薄になり、衛生用の紙製品の需要は確実に増えたようです。その反面、コンピューターの普及とともにペーパーレスという言葉がささやかれ始めた昨今、確かに情報伝達手段としての書籍や広告などは携帯電話やタブレットの普及で大きく使用量が減少しており、また、FAX用紙もメールの普及とともにその使用量を減らしております。しかし、現在の紙の役割はもはや情報伝達だけではなく、パッケージ、建材、農業資材、産業資材、粘着テープの基材、絶縁体など多岐にわたっており、様々な形に進化して皆さんの生活の中に溶け込んでいます。


今回からシリーズで紙の歴史について触れていきたいと思います。紙がどのような歴史をたどり、どのような進化を歩んできたのかをお話させて頂きたいと思います。


まず、紙ができる前の『紙のようなもの』のお話です。中国では前漢の時代、紀元前200年~紀元前100年くらいに、紙の原型になるようなもので、桑の樹皮を水につけて乾かしたようなものが出現しました。また古代エジプトでも、カミガヤツリという草を水につけてふやけさせた後、搾水して乾かした『パピルス』と呼ばれる『紙のようなもの』が存在しています。

 このパピルスですが、紙ではないので、ここでは『紙のようなもの』と呼んでいます。現在の紙の定義として『植物などに含まれる繊維をほぐして、その繊維を水の中で泳がせ、掬い上げたものを乾燥させてシート状にしたもの』とあります。この『繊維を水の中で泳がせて掬い上げる』ことを『漉く(すく)』というのですが、この漉く作業がパピルスにはないので、紙とは呼べないのです。
 さて、この『紙のようなもの』に見込まれた主な役割は情報伝達であったのですが、その当時の主要な情報伝達手段は竹簡や木簡、または絹などで、『紙のようなもの』は、まだ技術開発の途上であったため、審美性、保存性、生産性に劣り、命令書や手紙、また後世に重要な情報を残すための手段としては竹簡や木簡、絹ほど、価値のあるものとは考えられていなかったようです。 
   さて、時代はそこから200年ほどが経ち、漢の時代、西暦50年くらいに蔡倫(さいりん)という人が誕生します。先ほど説明した『紙のようなもの』は、この時代、主に書写に使用されていましたが、やはり様々な面で竹簡や絹ほど価値のあるものとは考えられていませんでした。そこで、学問にも見識のあった当時の皇帝が蔡倫に紙づくりの実験を命じます。才能豊かな蔡倫は樹皮や麻クズ、布のクズなど、様々なもので実験を重ね、西暦105年についに『蔡候紙(さいこうし)』という紙を完成させます。いわゆる世界初の『紙』の誕生です。蔡候紙は様々な植物の樹皮を水に浸し、叩いてからドロドロの状態にして、その水気を乾燥させてシート状にしました。従来の『紙のようなもの』に比べ、見た目も美しく、生産性も向上しました。実はこの『叩いてドロドロにする』という工程は現在の紙漉きの技術でも使用されており、この工程のことを叩解(こうかい)
 と呼びます。叩解によって、植物の繊維を解きほぐし、繊維を枝毛のような状態にして、互いの繊維同士を絡みやすくして、『漉く』ことによって、はじめて『紙』と呼べる丈夫でしなやかなシートにすることができるのです。
 さて、蔡候紙が誕生した後の後漢の時代、紙はさらなる改良が加えられ、蔡候紙の誕生から100年後くらいから中国全土でも一般的に使用されるようになります。竹簡や木簡に比べ軽く、保管や持ち運びに優れ、また絹に比べ安価であったため、当時の発明としては画期的なものであったと思われます。その後、蔡倫の発明した『紙』は全世界へその製法とともに伝達していきます。現在でも、伝統的な中国の紙漉き職人の間で蔡倫は紙の守護神として崇められているようです。
 さて、今回は紙の成り立ちをお話させていただきましたが、いかがだったでしょうか?『紙は文化のバロメーター』という言葉があります。紙はその時代時代において、文化の大きな役割を担っている場合が多いのです。紙の歴史を正しく知るためには、紙がその時代でどのような役割を担い、どのような進化を遂げてきたのかということを知ることが一番の近道だと思います。次回は日本に伝播した紙がどのように使用され、どのような進化を遂げてきたのかをお話させて頂ければと思います。それではまたお会いしましょう。




不織布のあれこれ(基本編)

 皆さん、こんにちは。世間は新型コロナ ウィルスの騒ぎで外出制限や営業自粛など、経済に様々な影響も出てきておりますがいかがお過ごしでしょうか?今回は皆さんの生活にも深く関わっていて、それでいて意外に気付きにくい不織布の世界に触れたいと思います。 さて、不織布と言えば何を思い浮かべますか?今、一番話題になっている不織布製品と言えばやはりマスクでしょうか?中国製マスクの相場は1年前の10倍ほどに値上がりして、それでも手に入らない状況が続いております。 実はあのマスクには2種類の不織布が使用されています。スパンボンド不織布とメルトブローン不織布という2種類です。一般的な不織布マスクは3層構造で目が細かくフィルターの役割をするメルトブローン不織布を、表 裏、強度のあるスパンボンド不織布で挟み込むような構造になります。
 
    
         
 この不織布マスクの心臓部とも言えるメ ルトブローン不織布の製造が世界的なマスク需要に追い付かず、価格が高騰して、このような状況になっているのです。 さて、不織布マスクで使用されている、もう一方のスパンボンド不織布、こちらは皆さんの生活に一番密着している不織布になるのではないでしょうか?7月からのレジ袋有料化で需要が高まるエコバッグや焼き肉屋さんで渡されるあの黒いエプロンもスパンボンド不織布です。その他、カイロや水切りネット、スーツカバーやお茶 パックなどにも使用されており、皆さんが目にする不織布で一番メジャーな不織布と言えるのではないでしょうか?
 今、『紙屋なのに不織布も取り扱ってるの?』 という質問を画面の向こうからされましたよね?...素晴らしい質問です。答えはYESです。
  実は不織布は、製紙メーカーさんと繊維メーカーさんで製造されている場合が多いんですね。繊維メーカーさんだと、帝人さんや旭化成さん、ユニチカさんや東レさんなど、アパレルで皆さんもよくご存じのメーカーさんが製造されています。  
 先ほどのスパンボンド不織布やメルトブローン不織布、材質でいうとポリプロピレンやポリエステルなどの化学繊維を使用して製造された不織布は繊維メーカーさんで製造される場合が多いようです。 
  では製紙メーカーさんが製造されている不織布はどうでしょうか?こちらはやはりパルプを使用したものが多いよう で、例えば王子キノクロスさんが製造されている、リードクッキングペーパーのような解繊パルプを固めて製造するエアレイド不織布や、日本製紙さんが作られているワイピング用の不織布などパルプの特徴である吸水性を持ち味にした製品が 多いようですね。
 弊社がメインでお取引きをさせて頂いている、四国の和紙メーカーさんや特殊紙メーカーさんでも不織布を製造されています。こちらで製造される不織布の種類 には湿式不織布という種類があります。湿式不織布は従来の製紙技術を生かし、繊維を水に泳がせて製造するという工程を経て製造される不織布です。地合いが均一になりやすく、多種類の繊維の混抄(こんしょう)や多層構造の不織布などの製造が可能です。ヒートシール製、吸水性、濾過性、膨潤強度など、複数の機能性を付与したり、使用用途に合わせた開発が行いやすいなどのメリットがあります。麦茶や 出汁のパック、ラッピングシートなどの原紙は湿式不織布が多いですね。   

 弊社でも、ここで紹介した、湿式不織布、エアレイド不織布、スパンボンド不織布の他、様々な不織布を取り扱 っています。時々、お取引先様から『お客様からの引き合いで不織布が欲しいんだけど・・・・』というお問い合わせを受けることがあります。その場合は使用用途やイメージをお聞きしておりますが、なかなか先方でもイメージがはっきりしていない場合が多いようで、選択肢が多すぎるゆえに難航するケースが多いようです。 例えば、カーディーラーで『使用用途やイメージは特に決まってないけど、とりあえず車が欲しいんだ』というお客様にどう車を提案していくか・・。ここは紙屋の腕の見せ所なのかもしれませんね。

 さて、今回は意外に知られていない不織布ということをテーマに記事を書きましたが、いかがだったでしょ うか?不織布ワールドは、素材、製法、種類、用途開発など、それこそ奥が深すぎて、私もまだまだ勉強中の身 ではありますが、皆さんの身近なところを例に説明させて頂きました。またの機会にさらなるディープな不織布ワールドを紹介させて頂ければと思います。それでは、皆さん、またお会いしましょう。




紙の単位の豆知識

 

種類

短辺×長辺 (mm)

A列本判  

625×880 

B列本判

765×1085

四六判

788×1091

菊判

636×939

ハトロン判

900×1200

 

皆さんは紙に関わる単位といわれて何が思いつくでしょうか?まず枚(まい)ですよね。1枚、2枚・・・、一番使う機会が多いのは枚ですかね。その他に大きさを示す単位だとcm(センチメートル)やmm(ミリメートル)もありますね。例えば商品説明で『A4(210mm297mm)x500枚入り』、というような表示で大体どのようなものか想像つきますよね。

それでは、文具店さんや、ネットショッピングをしている時に、画用紙など、少し厚手の紙の商品説明で180g(グラム)とか90kg(キログラム)などの表示をみたことはありませんか?紙一枚の重さで180gも無さそうだし、ましてや90kgもの重量はないので不思議に思われたと思います。                                    

実はこの180gの表示は180g/㎡(1㎡当たりで180g)ということなのです。その紙を1メートル(1000mm)X1メートル(1000mm)の大きさにして重さを計った場合180gになりますよ、ということになります。この180gという単位のことを私たち紙問屋は坪量(つぼりょう)と呼びます。 
 では、90kgの場合はどうでしょう?こちらは、全判サイズ1,000枚の重さということになります。この 全判サイズというのは、皆さんが一般的によく手にする A4 判や B5判にカットされる前の元の大きさ ということになります。全判サイズによくあるサイズというと 4/6判、や A 本判、B 本判、菊判、ハトロン判などがあり、紙の種類 によって全判のサイズは変わってきます。(表参照) この全判 X1000枚の重さが90kg ということなのです。この90 kgという単位のことを我々紙問屋は連量(れんりょう)と呼びます。  

さて、ここで連(れん)という聞きなれない言葉がでてきました。 しかし我々紙屋は、頻繁にこの連(れん)を使用します。実はこの連も単位で、連=1000枚なのです。先ほどの連量は紙1000枚の重 さということでしたよね。 

※板紙の場合は連=100枚なので注意

 基本的に紙問屋や紙の代理店は、手漉きや、よほどの特殊な 紙でない限り、1枚、2枚で紙の仕入れや販売をすることはあり ません。最低でも全判1包み250枚で取引をし、在庫品やメイン の取扱商品などは10連(1万枚)、20連(2万枚)で仕入れをし て在庫を持って販売します。(写真は20連) 万とか千とか百など、様々な単位を使用していると発注の際、間違いの元になるので、連という単位が紙屋や印刷屋などとの共通の単位になるわけです。以前、取引先の仕入れ担当の方が 新人の方に変わった時に最初は『4 切の大きさで 1 万枚注文します』と発注していたのが、『全判2.5連、4切仕上げで注文します』と発注してきたときには、(おっ、ペーパーマンになったな) と思ったりしました。 


さて、ここからは実際に取引先と価格のやり取りをするときに、どうするかというお話をします。0.25連や1連などの話の場合は全判1枚あたり50円などのお見積もりを提出する場合が多いのですが、別抄きで1トン、2トンをまとめて抄いた場合の見積もりや製紙メーカーとの仕入れ交渉などの場合は、『キロ500円』などの単位でやり取りをしたりします。これは文字通り1kg当たり500円ですよという話です。お肉の販売みたいですよね。

例えば、キロ500円で、全判60kgの原紙を20連注文した場合、仕入れ価格は500円x60kg(1連の重さ)x20連で600,000円が仕入れ価格となります。枚単価に直すと、30円/枚ですね。紙屋同士や製紙メーカーとの価格のやり取りなどでは、この紙はキロいくら?と聞いたりします。そうすると同じ種類で連量の違う紙でも統一で価格が出せるのです。


例えば『奉書』という紙があったとします。その紙のラインナップに

    奉書 4/6判 60kg ② 奉書 4/6判 90kg 

の2種類があったとして、奉書は全シリーズ、キロ500円です。としたら、60kgは500円x60kg÷1000枚=30円/枚、90kgは500円x90kg÷1000枚=45円/枚となり、キロ500円という価格提示で全ての価格が出せるわけです。


さて、ここで紹介させてもらった単位の話は、まだほんの一部なのですが、いかがだったでしょうか?全判サイズよりさらに大きな単位で平判にカットする前の巻取り原反の単位や、その原反をスリットする前のさらに大きなマザー原反の単位など、まだまだ原紙の単位はありますが、長くなりましたので、またの機会に紹介させていただこうかと思います。それではまたお会いしましょう。





円網ヤンキー抄紙マシン概略図

 機械抄きの和紙とコピー用紙などに代表される洋紙との違いは何でしょうか?どちらも機械で抄いています。確かに和紙は手漉き和紙の風合いに近づけるために作られており、手触りが柔らかく、温かみがあります。しかし、どちらの原料もバルプをメインとして抄いています。同じパルプを使用してどうして、このような違いが出るのでしょうか?

 まず和紙は繊維の長い針葉樹のパルプをメインにしており、洋紙は繊維の短い広葉樹のパルプをメインに抄いております。この違いにより、和紙は嵩高で柔らかい紙になり、洋紙は目の詰まった印刷に向いている紙となるのです。

 そして、2つめが抄紙マシンの違いです。大きな違いはドライヤーの違いです。機械漉きの和紙の多くで使用されるヤンキードライヤーは紙の片面にだけ熱を当てて乾かすため、ドライヤーの当たっている面と当たっていない面で風合いの差が生まれます。これが紙の表と裏になり和紙の大きな特徴となっています。しかし、乾燥させるスピードが洋紙で使用される多筒式ドライヤーよりも遅いため、大量生産には向かないため洋紙に比べコスト高になりがちです。一方洋紙で使用される多筒式ドライヤーは、紙の表裏両面に小さなドライヤーを連続して当てていくことにより、すばやく乾燥させます。これにより表裏のない紙を大量に生産することが可能なのです。

 

 

① 原料槽の中に溜まっている製紙原料を円筒型の網(円網)ですくい上げ、網とフェルトの粗密の差を利用して、紙の素となる原料を次工程に移していきます。

 

② フェルトパートでは紙の地合を形成します。紙の素となる原料の水分を落としながら次工程のドライヤーパートに移していきます。

 

③ ドライヤーパートでは紙を乾燥させます。高温に熱せられたドライヤーの表面に紙を当てて乾燥させます。機械抄き和紙の抄紙で使用されるヤンキードライヤー方式では紙の片面にのみ円筒型の大型ドライヤーを当てて紙を乾かすため、紙に表裏があります。ドライヤーに当てられた方が表面(ツル面)、当たっていない面が裏面(ザラ面)になります。

 

④ 欠点検知器で異物が入っている箇所に目印を入れます。後の工程で異物の入っている箇所を除去し、前後の紙をつなぎ合わせます。

 

⑤ 巻き取りパートでは乾燥した紙を巻き取っていきます。巻長8000m~12000mくらいのマザーロールに仕上げます。後の工程で希望幅にスリットします。

 

⑥ スリット工程ではマザーロールをユーザー様の希望にあわせてスリットします。また欠点検知器によって入った目印をもとに、異物の入っている箇所を除去し、前後の紙をジョイントします。

 

⑦ 製品幅にスリットされた原紙を梱包し、製品名、巻m数、ロットNo、ジョイント回数などが記載されたラベルを貼り完成です。

 

 


 

和紙について

 和紙は洋紙に比べ繊維が長く、紙厚が薄くても耐久性や保存性に優れ、美しい風合いが特長です。生産性の低さから価格は高いものの、トータル的に見ると、薄く、強靱で世界で最も優れた紙と言え、世界各国の文化財修復にも使用されております。

 大量に生産された江戸時代には、建具の他に着物や寝具にも使用されていました。現在、なじみの深いところでは、紙幣の素材などに用いられています。また、天然の素材として、インテリア向けの需要も高まっており、その他に卒業証書をはじめ、様々な習い事のお免状用紙などは越前和紙の透かし入りの鳥の子、局紙、もしくは檀紙などが使用されています。
 和紙の代表的な産地に「越前和紙(えちぜんわし)」「美濃紙(みのがみ)」「土佐和紙(とさわし)」があり、3大和紙産地と呼ばれています。

 製紙技術の歴史は、中国「後漢」時代に蔡倫(さいりん)が改良したことから始まります。日本への伝来は、610年と言われており、ヨーロッパへの伝来と比較して500年以上も早く伝来しました。さらに、513年五経博士が百済より渡来し、「漢字」「仏教」が普及しはじめた頃、写経が仏教普及の大きな役割をはたしていたことから、この頃すでに紙漉人がいたのではないかとも推測されています。年代のわかるものとして、現存する最古の和紙は、正倉院に残る美濃、筑前、豊前の戸籍用紙です。また、最古の写経である西本願寺蔵の「諸仏要集教」は、立派な写経料紙に書かれており西暦296年の銘記があります。

 西域への伝来は日本への伝来の約140年後の事であり、製紙技術者が戦時捕虜となることで伝来しました。当時、製紙法は中国とその周辺国家における国家機密であり、高句麗からの技術の伝達は信頼の証として伝承されたものでした。紙の発明地と伝えられる中国や地続きの朝鮮半島と交流のあった日本には、そのような理由から比較的早い時期に伝来したと考えられます。